エチュード・幻想即興曲で有名なショパンの生涯

音楽解説

皆さんごきげんよう。

 

今回はエチュードや幻想即興曲で有名なショパンの生涯について説明します。

 

ショパンは200曲以上もの作品を遺し、現在でも多数の名曲が知られています。

 
今回はショパンの作った名曲も含めその生涯について解説します。

 

ショパンの一生

ショパンは1810年にポーランドの首都ワルシャワで生まれました。

 

フルートとヴァイオリンが得意な父、歌とピアノが上手な母と音楽家庭に生まれたこともあり、小さい頃音楽に触れる機会に恵まれました。

 

4歳でピアノを始め飲み込みが早く上達していくショパンをみて父親はピアニストでヴァイオリニストでもあったジヴニー先生に息子の指導を依頼します。

 

ジヴニー先生は、バッハやモーツァルトの楽譜を教科書にして、ショパンにピアノと作曲の方法を教えました。

 

ジヴニー先生との詳しいエピソードは以下で解説しています。

 

8歳の頃ワルシャワではじめて公開演奏を行いました。

 

演奏では見事な腕前を披露し天才と呼ばれました。

  

ショパンの作曲活動の始まりはポロネーズ

ショパンはピアノの作曲にも興味をもっており、最初に作曲した曲はポーランドの民族舞踏「ポロネーズ」です。

 

三拍子のリズムをふみならして踊るポロネーズは、幼いころからよく耳にしており、そこから連想して作曲したんですね。

 

ショパンは生涯に渡って「軍隊」「英雄」といった「ポロネーズ」の代表作を多く作曲しています。

 

ショパンの出身地であるポーランドはこの時代、ロシアの支配下に置かれていたため武装蜂起が絶えずあり不安定でした。

 

そんな中でもポーランド人であることに誇りを持っていました。 

 

「ポロネーズ」作品にはポーランドへの愛国心や平和を願う気持ちが現れています。

 

ワルシャワ音楽院時代

 

さて、時は進んでワルシャワ大学院時代(現在のショパン音楽大学)です。

 

ショパンが16歳の時、ポーランドで最も有名な音楽大学のワルシャワ音楽院に入学します。

 

学院時代には古典的な作曲法の書法を無視し、自由に独自の作曲をするようになりました。

 
しがし、エルスネル学院長の若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていく方針により、ショパンに自由が作曲できるようにしました。
 

さらに生徒に出している課題も、ショパンに対しては才能を引き出させるように内容を変更しました。

 

そのような環境のおかげで,17歳の時に作曲した

 
「ショパン ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 Op 2
 

は音楽批評家として健筆をふるっていたシューマンに絶賛されたました。

 

当時の生徒の勉学の状況を記した報告書にも「格別の才能・音楽的天才」という評価がされています。
  
そして、ショパン19歳の時、ワルシャワ音楽院を首席で卒業します。

 

ウィーン時代

 

1830年ショパンが20歳の時、さらなる才能の飛躍求めてオーストリアの首都ウィーンへ向かいます。

 
つてをたどってケルントナートーア劇場で演奏をして見事デビューを果たしました。
 

しかし、ロシア軍のワルシャワ制圧を知ります。
 

その衝撃と絶望の中でショパンは《革命》op.10-12を作っています。
 

たたきつけるような激しさで始まり、怒りや悲しみがうねるような旋律で有名な曲です。

 

愛国心の強いショパンにとってロシア側の国であるオーストリアでの生活は孤独と苦痛にあふれるもので、とても演奏会を開く余裕がありませんでした。

 

ウィーンで活躍することは不可能だと感じたショパンはパリへ向かうことにします。

 

パリ時代とサロンでの活躍

1831年、ショパンが21歳にパリに到着すると、リストなどパリ音楽界の華やかなメンバーと仲良くなります。

 
彼らの紹介で、サロンに迎え入れられます。
 

サロンとは17世紀頃から発達した、宮廷や貴族の夫人の邸宅で互いの交流を深めるために開かれた社交の場です。
 

上流階級の夫人が主催するサロンに受け入れられることは成功の近道にもなっていました。
 

当時は「7月革命」の後でもあったため、不適切な一言でギロチン台に送られてしまう可能性がありました。
 

そのため演奏を中心としたサロンが好まれるようになった時期でもありました。
 

またサロンでは駆け引きが行われることもしばしばあり、そうした状況で音楽はその場の緊張を和らげる必要不可欠な存在となり、演奏家はそれを活かす貴重な人材として、歓迎されるようになりました。

 
ショパンはサロンでの演奏をきっかけに、弟子にしてほしいとピアノ愛好家から引く手あまたの人気教師となります。

 

サロンではいつも婦人たちに囲まれショパンはモテモテでした。
 

高額なレッスン料とサロンでの演奏への謝礼、そして楽譜出版がパリでの生活を優雅なものへと変えていきます。

 

恋人 ジョルジュ・サンド

ショパンが26歳の時ジョルジュ・サンドという女性に出会います。

 
彼女はショパンより6歳年上で、フランスの小説家でした。
 

サンドはショパンの音楽の才能に惚れ込み自分の想いを手紙にしてアプローチしていました。
 

だんだんとサンドにも好意を抱くようになったショパンはお互いに惹かれ合い、交際するようになります。

 

さてショパンは子供の頃から病弱で、肺に疾患がありました。
 

療養のためマヨルカ島に滞在します。
 

サンドもショパンの体を気遣い、手料理を作ったり看病したりと、ショパンにとって心強い支えとなり、彼の作曲活動をサポートしました。
 

体調が回復したショパンはパリに戻ると弟子たちが殺到しました。

 

ショパンは自分のマンションで朝から夕方まで作曲とレッスンをして、終わったら馬車でサンドのマンションに行き、夕食をともにしました。

 

数年間の間、春・夏・秋は作曲に集中し、冬はパリでピアノのレッスンという日々を過ごします。
 

仕事もはかどり、「英雄ポロネーズ」や「子守唄」が作曲されました。

 

ショパンの晩年

ショパンとサンドの中は次第に悪化します。

 
サンドはショパンの看病にだんだん疲れてしまいます。
 

またサンドの子供との関係もうまくいかず関係の悪化につながり1847年に破局します。
 

サンドとの破局や持病の結核の悪化によってひどく苦しむようになります。
 

ついには1849年、パリにおいて,39歳の若さでその生涯を終えます。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

 

ショパンは波乱万丈の人生で39歳という短い間に多くの名曲を遺しています。

 

私もショパンのかっこいいエチュードシリーズが大好きです。

 

当ブログではショパンの作った作品の解説もしているので良ければ見て見て下さい。

 

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